「椿山課長の七日間」
(浅田次郎)
「では現世人格を確定いたします。何かお困りの折は、電話機の☆印を押してコールして下さい」
はい、と椿は素直に肯いた。
電話を切って細くしなやかな指先を見つめる。 四十六年間慣れ親しんだ節太のごつい指とはえらいちがいである。
手の甲に浮き出る筋は三十九歳の年齢を感じさせるが、それなりに艶かしい。尖った指先には形のよい透明な爪が伸び、いかにも家事労働とは縁遠い、独身キャリアウーマンの手という感じがする。
死者に恐怖心はない。未来がないのだから不安もなかった。ただ、胸がときめいた。
ルームライトをつけ、カーテンを閉める。自分は椿山和昭ではなく、和山椿なのだと言い聞かせながらロッカーを開け、全身が映る鏡の前に立つ。
ううむ。まんざらでもない。いや、はっきり言ってタイプである。
黒のTシャツにべージュのストレッチパンツ。背は高からず低からず、細身のわりにはバストもヒップも十分にあり、しかも年齢を感じさせぬみずみずしさである。
「スケべおやじ。なにジロジロみてるのよ」
鏡の中の自分が不愉快そうに言った。
「でも、仕方ないっか。自分の体くらいちゃんと確かめておかなくちゃね」
齢が若く見えるのは、濃いワイン色に染めたショートヘアのせいもある。シャープで知的な表情と良く似合っている。アクセサリーは糸のように細い金のネックレスと、プチダイヤのピアス。左手の中指にカルテイエのリング。 素足に高級ブランドらしき黒のサンダル。シンプルでさりげなく、一分の隙もないグッドセンスである。
「さっすがベテランのスタイリストだわ。もう、言うことなし」
ドアチェーンをかけ、ロックを確認し、誰もいるはずのない室内を振り返る。ストレッチパンツのサイドファスナーに指をかけると、心臓が破裂しそうに高鳴った。仮の肉体とはいえ、完全なる生命が宿っているらしい。
自然としどけない内股のしぐさになってファスナーをおろし、Tシャツを脱ぐ。
「おお」と捻ったつもりが、「かわいいっー」という声になった。
着痩せするたちなのか、下着姿の体は思いがけずたくましい。肌は白く、まことにきめ細かい。
さて、ブラジャーはどうやって脱ぐのだろう。妻のそんなしぐさは覚えていない。左手を腰から、右手を肩ごしに回してホックを探る。
「ええと、どうするのかしら」
赤ん坊を背負うようにすると、両手が届いた。
一糸まとわぬおのれの裸身を、椿はあかず眺めた。
何とも奇妙な感覚である。休日にはおそらくジムとエステとで、鍛え上げ磨き上げているにちがいない完成された美女の中に、ハゲデブメガネの三重苦にあえぐ中年男のメンタリテイが宿っている。
おそるおそる体のあちこちに触れてみた。しかし手は美女のものであるから、感触がメンタリテイを満足させはしない。あくまで自分の手が白分の体を弄んでいるにすぎなかった。
鏡に向かってさまさまのポーズをとり、ふしぎな視覚と触覚を楽しむ。好奇心とナルシシズムと変身願望がからみ合う、悦楽の極致という気がする。
何の気遣いもいらず、後くされもなく、犯罪性もなければ金もかからない。
長いことベッドの上であられもない痴態をくり拡げたあとで、椿は時を見た。
「いけない、こんなことしてる場合じゃないわ」
いけない、いけない、と洩らす言環にかえって欲情してまたしばらく体を弄んでから、ようやく下着をつけた。
浅田次郎著「椿山課長の七日間」(朝日新聞社刊)から引用