「メモリーズ・オブ・ユー」
(永倉万治)
◆神宮前のパスタ屋で、彼女は、トイレに行くたびに化粧が濃くなる◆
学食を出ようとした高橋を、小走りにすりぬけていくピンクのポロシャツが目にはいった。沖山じやないか。
高橋は、ピンクのポロシャツのあとを追った。
「沖山!」
その声に、ピンクはふり向くと、あわてて走りだした。
「待てよ」
沖山は、走る。
でも、もともと体力がまるでないタいプだから三十メートルもいかないうちに、高橋に追いつかれてしまう。
「なにも逃げることは、ないじやないか」
「ごめんよう」
沖山は、苦しそうに肩で息をついている。
同じクラスの沖山に高橋は、五万円の金を貸していた。一度目は、アいツが泣きそうな顔で「田舎から出てきた妹が、体が弱くてサ。いい漢方の医者を見つけたんだけど、これが健康保険がきかなくてね…・・」と いかにも哀れを誘う声音でいう。ついホロッとなった高橋は、アルバイトで稼いだばかりのニ万円を貸してやった。
「ありがとう。キミは、本当にやさしい人なんだね」
そういって沖山は、高橋の手を握りしめて、何度もお礼をいった。
それからニヵ月もたたないうちに、また沖山は、うつむき気味に、高橋の前にあらわれて「困ったよ。本当に困っちやったよ」といまにも泣きだしそうな顔をする。
きいてみると沖山は「妹の看病に疲れて、バいトができなくてサ、それで、部屋代をためてたら、大家がサ、今月中に荷物をまとめて、出てけっていうんだよ。俺、もう、どうしていいかわかんなくて....」といいながら、うっすらと涙を浮かべる。
高橋は「しようがねえなあ」といいながらも、沖山があわれになって、兄貴から三万円借りて、沖山にわたしてやった。
「恩にきるよ。キミっていう人は、本当にいい人だね」
そういって、沖山は、泣いた。
ところが、それからしばらくして、高橋が、沖山と同郷の後輩にあたる日影に会った際「あいつの妹が、大変なんだってな」ときりだすと、日影は、意外そうな顔つきになって「あの人に妹なんていたかなあ、たしかー人っ子のはずですよ」という。
そのうちに、同じクラスの連中から「沖山は、毎晩、新宿で遊び狂ってる」という噂がはいってきた。
高橋は、さっそく沖山を問いつめると「すまん。だますつもりはなかったんだ。もうちょっと待ってくれ。金のはいるあてがあるんだ。なっ」ときも哀れを誘うような口調でいう。そのとき高橋は、沖山が右耳に黒いピアスをしているのを、目にとめた。
なんだ、あの野郎。
それから、ブッツリと教室にも、高橋の前にも姿をあらわさなくなってしまった。
「悪かったよ。かならず返すから」
「信用できないね」
沖山は、ポケットからサイフをとりだすと中身をあげて見せる。千円札が三枚はいっているだけだ。
「なっ」
「なっ、じやないよ。どうするつもりなんだよ」
沖山は、しばらく叱られた小学生のようにうつむいていたが、ふいに、「高橋、なあ、女のコ、紹介するっていうのはダメかな。金をちょっと待ってもらうっていう条件で…」と意外なことをいいだした。
「まさか、妹じゃないだろうな」
「悪かったよ。そんなんじゃないよ。すごい美人だよ。そのコ…」
青山三丁目の交差点から千駄ケ谷方面にぬける通称 ”キラー通り” にあるポストカード専門店「オン・サンデーズ」でニ人は、待ち合わせることになった。
借金のいいわけをするときとうってかわって、沖山は生き生きと高橋に段取りを説明する。
「彼女は、神宮前周辺が好きなんだよ。それできあ、デートは、その辺がいいんじゃないかって、オレのほうでー応決めちゃったんだけれど、いいよね」
高橋は、これまで沖山からは嘘の話しかきかされたことがない。だからアイツが、女のコを紹介するといったときも、まったく期待はしていなかった。沖山は、かいがいしくデートのお膳立てをしてくれる。沖山の説明を高橋は、半ば、ウワの空できいていたが、手わたされたメモには、きちょう面な字で神宮前三丁目界隈のいくつかのテートスポットガイドが書かれていた。
それによれば―――シックなフランス料理「パス・タン」、安くておいしい中華料理「ふーみん」、カレー料理の「GHEE」、体育館風いタリア料理の「パスタ・パスタ」、カフェバー「Night Bar」にアイスクリームの老舗「スエンセンズ」といったラインナップ。
夜の七時を十五分過ぎたところで「オン・サンデーズ」のドアから、女のコが顔をのぞかせた。高橋は、まさかと思った。彼女は、一見モデルを思わせるような派手な美人顔で、一瞬、高橋の横でポストカードを見ていた若い男も、高橋と同時に、彼女に視線を走らせた。
「ビーさん?」と高橋は、小声でいった。
彼女の顔に微笑が浮かんだ。やっぱりこのコだ。
高橋は、信じられない気持ちで彼女を眺めた。ジーンズに、ゆったりとした白いブラウス姿の彼女は、後ろ向きになったままで、ドアの外で待っている。
”ビー”というのが彼女の名前だった。
通りに出ると、高橋は、彼女とならぶようにして神宮前三丁目の交差交差点に向かって歩きだした。彼女の長い髪から、きつい香水の匂いが漂ってくる。
行きかう車のライトに浮かぶビーの横顔は、よく整っていて、すこし濃いめの化粧がセクシーだった。
「毎日、なにしてるの?」
彼女は、ニコッと笑って、首を横にふる。
「じゃ、家で、フラブラ?」
彼女は、コクリとうなずくと、白い歯を、ことさら目立たせようとするみたいに笑顔をつくった。
顔全体か、すぐにセックスシーンを連想させるような、ものうげで、いやらしい気配が感じられる。沖山は、彼女で五万円を帳消しにするつもりなんじやないのか。
つまりー晩彼女と…そう考えているうちに、高橋は、かすかにボッキしかけてしまう。
二人は、神宮前三丁目の交差点を左に折れ、明治通りに向かう通りを歩いていく。
高橋は、彼女を「Night Bar」に誘った。落ち着いた雰囲気のカフェバーだ。
高橋はジントニック、そして彼女はマルガリータをたのんだ。
会話は弾まなかった。
彼女は、なにを考えているのだろう。
白いブラうスの胸のあたりのふくらみは小さめで、高橋は、しきりに彼女がのけぞったときの表情や体つきを想像して、何度もボッキしかける。
話は、いっこうに弾まない。
彼女は、しきりに、セイラムライトを吹かしつづける。
高橋は、思いきって、自分の右手をのばして、彼女の手をとった。一瞬おどろいたような表情を浮かべたが、彼女は、高橋の手を握りかえして、妖しげな微笑を浮かべた。
彼の耳の奥に “突撃“という号令が鳴った。
高橋は、ジントニックを飲みほすと「出よう」と短くいった。そして、明治通りとぶつかる右角のビルの地下にある「パスタ・パスタ」に向かった。
広々とした空間の中央に調理場があり、オリーブ油とニンニクの入りまじったイタリア料理独特の匂いが漂つ。その明るさと広さが気持ちよい店だった。
テーブルにつくと高橋は、赤ワいンをたのんだ。もうすこし酔う必要がある。スパゲテイに、ナスのグラタン、オソッ・ブッコ(肉料理)を注文した。
「これでいい?」と彼がきくとビーは、ただコックリとうなずいた。
彼女は、化粧室に行ってもどってくるたびに、化粧が濃くなっていく。
運ばれてきたスパゲテイ・ポモドーロを、彼女は、小指をピンと立てながらフォークで、赤い唇にもっていく。
高橋は、とりすました化粧の濃い彼女をそっと眺めがら、何度もつき合うタイプじゃないな、ようするにアレだけだな、と胸のなかでつぶやく。
彼女は、周囲の視線を、おかしいくらい意識しながら、スパゲティを食べる。
そのとき、高橋の背後から、「あらっ、ビーじやない」という声かした。
紫色のシャツを着て、髪を逆立てた女が、つかつかと二人のテーブルに近よってくると「お楽しみのところ、ゴメンナサーイ。あとで、電話するわね」とビーにいった。女のアゴのあたりには、うっすらとヒゲを剃ったあとが見えた。
高橋は、お尻を揺らすようにして歩いていく紫色の女の後ろ姿を見送りながら、まさか、と思った。ビーは、コンパクトを取りだして、アイラインを点検している。
なんだ! そうだったのか。沖山の野郎!
そう思ったとたんに、高橋は、ビーを何度も押し倒す妄想にかられた自分を思い出して、急に、笑いがこみあげてきた。
しだいにこらえきれず、それは、大きな笑い声となって周囲に響いた。
彼女は、白い歯をむきだすようにしてつくり笑いを浮かべている。
高橋は、体を折りまげるようにして笑いこけた。スパゲティがノドにつかえてむせる。
たしかに、彼女は美人だ。その辺の女のコより、ずっとキレイだ。
高橋は、狂ったように笑いころげる。
ビーはつくり笑いをやめると
「なにが、おかしいのよう!?」
とかすかに東北ナマリのガラガラ声でいった。
あれから彼女とは、一度も会っていない。
「メモリーズ・オブ・ユー」(永倉万治著)[講談社文庫1990]