小説カルーセル麻紀         泉 大八著

【泉大八著 小説セブン 昭和43年7月号】から引用

 ・・・私は物心ついたとき、すでに女であった。髪の毛も、女の子のような、お河童頭

だったし、着物も姉のお下がりだった。

 湯だって、母に連れられて、女湯に入っていたし、男湯は恐かった。

 姉は四人いた。

 私は、その四人の姉に囲まれて、人形遊びや、ままごとをして育ったのだ。

 兄は一人いた。

 だが、十五も年上だった。

 父は旧軍人で、私にはただ恐いだけの存在であった。

 生まれたのは名古屋らしい。

 しかし、育ったのは、北海道の港町 釧路である。

 そして父は平凡な勤め人であった。

 釧路は、漁師の町だ。

 私はよく、姉に連れられて、港に海を見に行った。

 冬の海は嫌いだが、夏の海は大好きである。

 なぜだか、判らない。

 目を閉じると、夏の釧路港の、いろいろな風景が浮かび上がってくる。

 ・・・・そうだ。

 もしかしたら私は、あの赤い揮をしめて、腕や背中に刺青をした、逞しい漁師たちの

肉体に、憧れていたのかも知れない。

 私はいま、右足の太腿に、緋牡丹の刺青を彫っている。

 ある人は、それをさして、

「お前はマゾヒストなのだろう」

 と云う。

 そうかも知れない。

 自分で、自分を責めてみたい気持ち。

 それは私の心の、どこかに潜んでいることはたしかだ。

 しかし今になってみると、私は、あの漁師たちの逞しい腕の刺青や、赤銅色した

背中の筋彫りに、憧れていたような気がする。

 私は、女の子のように、なよなよした体つきを持って生まれていた。

 そして女の子には、全然興味がなかった。

 精神的に、はじめから女だったのだ。

 ただ小学校に入る頃、自分に、姉たちにはないものが付いているのをみて、驚き

「どうしてなの?」

 と姉に聞いたことがある。

 姉が笑って、

「だって、トオルちゃんは男じゃないの」

 と云った。

 私は、その時のショックを忘れない。

 人間には、男と女があることは、知っていた。だが、自分がその男の子だとは・・・。

 私は母に、

「なぜ、女の子に産んでくれなかったの?」

 と不平を云ったものだ。

 さすがに小学校へ入学する時は、お河童頭を切り、男の子の服を着て通わされた。

 私は、それが窮屈でたまらなかった。

 私は小学校から帰ると、姉の洋服をひっぱり出して着て、遊んだ。

 父は、そんな私を、

「男の癖に、女の真似をするなッ」

 と云って、よく折檻した。

 また、私が自分のことを云うとき、

「あたし」

 ときまって喋言るので、また、

「僕とか、俺といえツ!」

 と云って叱られた。

 でも、叱られて泣いたあと、また懲りずに姉の着物をきて、日本舞踊を見様見真似

で踊ったり、化粧をしてうっとりと鏡の中の自分に見惚れたりした。

 私は、女になりたかったのだ。

 よく人は、女ばかりに囲まれて育った環境の故為だと云うが、私はむしろ、先天的な

ものであると思う。

 自分が、男だとは思えないのだ。

 私はよく先生に叱られた。

 言葉遣いが、直らないのだ。

 同級生たちは、そんな私を、

 −−お嬢さん。

 とか、

 −−なりかけ。

 と云ってからかった。女になりかけ・・・・という意味であろう。

 だが、父や兄や、先生に、いくら叱られても、同級生や上級生にからかわれても、

私は男の子になれなかった。

 学校の廊下を、私はよく、尻をふって歩いた。モンロー・ウォークの真似なのだ。

 すると上級生たちは、私に注目し、そして私を誘いにくる。

 それが、たまらなく嬉しかった。

 女だと思って、私を誘ってくれる上級生たちの男の子がいることが、私の自尊心を

満足させてくれるのだった。

 それでいて、私は酒が好きだった。

 父の目を盗んで、日本酒をよく失敬したこともある。そんな時、きまって叱られる

のは関係のない兄だった。

 私は、父や兄に、そんな形で反抗していたのだろうか?

 女物には不自由はない。

 私は、学校から帰ると、鞄を放り投げて、一切を脱ぎ捨てて裸になり、姉のパンティ

から着始めるのだった。

 姉の物を身につけた時、私は始めて、やっと本来の自分に戻ったような、安らぎを

覚えるのだから仕方がない。

 母は、ほとほと手を焼いて、私を抱き、

「女に生まれてくればよかったのに・・・・」

 と云って涙ぐんだ。

 学校では、体育の時間がある。私は、その時が嫌いだった。

 ソフト・ボールで、バットを持って打つ順番が廻ってくると、私は尻込みして、

「あたし、恐い。誰か、代わってエ・・・・」

 と半泣きになったものだ。

 変な話しだが、私は先生から叱られても、殴られたことは一度もない。

 私が、身を思わずくねらせて、

「いやーッ、先生、こわいッ・・・・」

 と悲鳴をあげるからなのだ。

 先生は苦笑いして

「気持ち悪いな、こいつ」

 と、ふり上げた手を下ろすのだった。

 釧路はまた、雪の町でもある。

 しかし私は、雪合戦や、スケートをしたことはない。ストーブの赤く燃えている部屋

の中で、お人形を抱いて過ごす方が、どれだけ愉しいかわからなかったからだ。

「男らしくしろ」

 と、父は私を折檻する。私は泣いて、

「だって、なれないんだもん・・・・」

 と反抗するよりなかった。

 小学校6年生のとき、腕白大将だった男の子と、初恋に陥ちて、生まれてはじめて

キスをした。

 私はその夜、寝られなかった。

 唇が火照って、他人の唇のような感じであったのだ。

 −−中学生になった時、私は幾つかの苦痛な目に遭わされた。

 それまで、女湯に入っていたのに、

「中学生になったんだから」

 と、男湯に行かされたことだった。

 私は、男の裸体の中で、ただ一人混じっている“女”の自分が嫌で嫌で苦痛で

あった。いや、恐怖ですらあったのだ。

 詰襟、金ボタンの中学生の制服。

 これも私には苦痛だった。

 なんとなく首を絞められているような、圧迫感があって、私には息苦しいのだ。

 私は、こっそりセーターを鞄に忍ばせて、家を出ると上衣を脱いでセーターに

着替え、登校するとまた上衣に着替えた。

 姉の鏡台から白粉を失敬して、顔に薄化粧を施して、登校したのは、その頃である。

 私は、女でいたいのだ。

 しかし、中学校という環境は、そんな私を次第に圧迫してくるのだった。

(ああ、女になりたい!)

 私は、日夜そう切実に思い、夜など蒲団の衿を噛んで忍び泣いた。

 薄化粧をして、セーター姿で登校してくる中学生。私を見る眼が、小学生の頃とは

変化していることに私は気づかされる。

 小学生の頃は、面白い変った子供で済んでいたのだが、中学生になると、それは

あからさまな嘲笑い、悪罵に変ったのだ。

 父は激怒して、私をストーブの火掻き棒で打ちのめした。

 だが、私は学生服の下に、女性の肌着やパンティを着ずには居られなかったのだ。

そして女性の服や、アクセサリーをみると、眼がどうしても吸いつけられてしまう。

<どうして私は男の子なんだろう?>

 中学生の頃の思い出には、二つばかり強烈なものがある。

 一つは生まれて始めて、男女の交わり写真を見せられた時だった。

 私は、ガーンと鉄の棒で、脳天をぶちのめされたような気がした。

 一週間ぐらい、頭がガンガンしたことを私は覚えている。

 次は二年生の時、初恋の同級生と、はじめてある体験をしたことだ。

 そのことを、あからさまに書くことは、やはり恥ずかしい。

 しかし、書かねばならないであろう。

 私は、彼を忘れられなかったのだ。生まれてはじめて唇を許した男性だからである。

 私は、その“恋人”と、接吻しているうちに、息苦しいような、性衝動を覚えた。

 彼もおなじ気持ちらしく、

「じっとしていて呉れる?」

 と私に聞いた。

 私は、うなずいた。

 彼は、私の手で、自分の下着をとらせ、そして私のパンティを剥いだのだ。

 私は、夢中だった。

 抱きあって、キスをしたり、触れあっているうちに、思いもかけない結果になったの

だが、私はめくるめくようなエクスタシーを味わったのだ。

 具体的に書けないのは残念であるが・・・・。

 2

 高校へ入る時、私の父は、泣きわめく私を床屋へ連れ込んで、むりやり丸坊主に

してしまった。

 そして進学を命じられたのは、スパルタ教育で有名な高校であったのだ。

 私は、理髪店の大鏡の中に映っている、見るも憐れなイガ栗頭の自分が別人のようで

悲しく、いつまでも大声をあげて泣きつづけたのだった。

<自分は男なんだ。男になろう>

 私は、自分で自分に云いきかせた。

 そして、言葉遣いも、態度も、男らしい演技をしようと考えた。

 また、男になり切るためにも、私は好意を寄せて来た女の子と、偽りの恋いを語ら

ってみた。

 だが、駄目だった。

 女性は、どうしても好きになれないのだ。

 好きな男の先生や、上級生をみると、胸は高鳴り顔が火照るのに、異性相手では、

なにか虫酸が走るのである。

 そのころ、私は週刊誌で、「メケメケ」を唄って売り出した丸山明宏を知り、そして

新宿のゲイ・バーのママ、ケニーのグラビヤ写真を見た。

 なかでも、ケニーの前髪を垂らして、目ばりを入れ、ルージュを塗ったあでやかな

顔写真は、私の心を強くゆさぶった。

<わたしだけじゃないのだ! こんな美しい人もいる!>

 そう考えると、私は矢も盾もたまらなくなった。

<東京へ行って、弟子になりたい!>

 私は、そのことばかり考える、悲しい人間になっていた。

 高校一年の一学期が終わるころ、私はあることから級友と喧嘩した。

 私は女の癖に、カーッとなって、すぐ喧嘩をしてしまうのだ。侮辱に耐えられない。

 私は男としては、身長160糎だから、小柄な方である。

 その私が、酔って怒ると、ビール瓶をもって、相手の頭を叩き割ったりする姿を、

想像できるだろうか?

 札幌時代には、ハイヒールをぬいで両手に持ち客の顔を殴りつけたことだってある。

 ・・・・それは私が、侮辱された時だ。

 その時も私は級友に侮辱され、はじめは泣いたが、あまり執拗なので、カーッとなっ

てしまったのだ。

 この傷害事件が原因で、私は、

<これ以上、男の子としての生活は耐えられない!>

 と真剣に思った。

 私の二番目の姉は、バーのホステスをしていて、豪華なアパートでの一人暮らしを

愉しんでいた。

 その影響もあったのだろうが、私は家を出て、女として生活しようと考えたのだ。

 男のまま学校を卒業しても、とても姉のような奇麗に着飾る生活はできない。

 それより女になったら、姉みたいな豪華な生活ができると私は思った。

 銀座へ出て“ケニー”の店で働けば、好きな悩ましいビキニ・パンティも買えるし、

ストッキングを穿いて踵の高い靴も履ける・・・・・・と私は憧れたのである。

 思えば私はそのとき十五歳、まだ子供であった。

 私は、ケニーのグラビヤ写真を抱いて、汽車に乗った。

 東京へ行くつもりだったのだ。

 ところが、汽車の中で知り合った人に、札幌にもゲイ・バーがある、という話しを

聞かされて、気が変った。

 札幌で、東京へ行く汽車賃を稼いで、それからケニーに会いに行っても遅くはない、

と思ったのだ。

 私は札幌の一つ手前の駅で飛び降りた。

 捜索願いが出ていて、改札口で捕まるかも知れないと考えたからだった。

 私は、あちらこちらを探し廻ってやっとその<ベラミ>という店に辿りつく。

 千景というママは、私を一目見て、

「うん、この子は物になるね」

 と云ったものだ。

 ゲイ・ボーイであるママさんは、一瞬のうちに私の、男になり切れない素質を、

見抜いたのであろうか。

<ベラミ>には、七人の、私と同じような男が好きで好きでたまらない人たちが、

働いていた。

 きいてみると千景ママは、東京から札幌へ移って、三ヶ月前にその店を開いたのだと

云うことである。

 私の源氏名は“マメ子”。

 私は、自分と同じ悩みをもった人たちが、うきうきと働き、楽しく語り合っている

のをみて、有頂天になった。

<こんな世界があるなんて!>

 私は、見るもの、聞くもの、すべてが珍しく、そして毎日毎日が幸せだった。

 悲しいのは、頭の髪の毛が、早く伸びてこないことだが、先輩の吟子から、本格的な

化粧をしてもらって、洋服を借り、頭にネッカチーフをかぶって、二人で札幌の夜の街

を歩いたときのことは、忘れられない。

 大通りのグリーンベルトを、腕を組んで歩いていたのだが、通りがかりの男たちに、

「お嬢さん、お茶でもいかが?」

 とか、

「つきあってくれない?」

 と云って云い寄られたときの、あの途方もなくゾクゾクしてくる恍惚感よ!

 私は興奮した。

<ああ、やっと女になれた>

 と、その時、私は思ったのだ。そして感動したのだった。

 吟子は、いまでも私の忘れられない同性の一人である。

 彼女は、女になり切れない私に、化粧を教え、服装についてのセンスを身につけさせ

てくれた恩人、と思って感謝している。

 しかし、そんな幸せも束の間で、捜索願いが出て、ある日、私は兄に捕まった。釧路

へと連れ戻された。

 私は機会をみて、また札幌へ逃げる。そして再び連れ戻される。

 ・・・・こんなことを繰り返すうちに、とうとう親族会議となり、私は兄から無茶苦茶に

ぶん殴られた挙げ句、勘当ということになったのだ。

 −−勘当。

 それは悲しいことには違いない。

 しかし、あの時の私は、なにか晴れ晴れした気持ちだった。

 もうこれで、誰も私に干渉をする人間がいない。そして両親や、兄妹に、恥ずかしい

想いをさせずに済む身の上になったのだ、と私は考えたのである。

 それに私は、踊ったり、働いたりすることが好きな性分なのである。

 札幌での生活は苦しかった。

 月給ではなく、チップだけが収入だったからだ。

 粗末な三畳のアパートで、ストーブもなく寒いので蒲団の中でコッペパンをかじる

・・・・という生活だったが、みんながまだ高校に行っているのに、私は女だからもう自活

している! と考えると、張り合いがあった。

<ベラミ>に勤めて十ヶ月位経った頃、私は二十四歳のハンサムな客をみて、一目で

夢中になってしまった。

 頭文字は −−K。

 Kは、札幌の書店の跡取り息子で、まもなくベラミの常連になった。

 Kは、私の中学時代の初恋の男に、よく似ていたのだ。

 ところが、恋をしはじめて同僚から教えられたのであるが、Kはなんと千景ママの

愛人だというのである。

 私は、Kをあきらめようとしたが、想いは募る一方であった。

 そしてある夜、私はママに、

「Kさんを譲って下さい」

 と、せがんだのだ。

「あの人を呉れたら、一生恩にきます。だから譲って!」

 私はその夜から、毎晩、ママを口説いた。とうとう千景ママも、これには根負けした

らしく、Kは念願叶って、私の恋人になった。

 だから今でも千景ママは、私の顔を見れば必ず、

「人の男を取った、憎い子!」

 と苦笑混じりに、語るのである。

 私は、Kとデイトの約束をした。

 

     3

 Kとの“初夜”は、その最初のデイトの日の昼間にもたれた。

 Kの車でドライブしたあと、円山公園の近くの、宮の森ホテルへ行ったのである。

 私は以前、初恋の男と、幼い性的な遊戯に耽ったことはあった。

 だがそれは、あくまで青い遊戯でしかなかったことを、Kは、その日、私に教えてくれたのだ。

 なにしろ、ベラミへ勤めるまで、オカマという単語すら知らなかった私である。

 Kは、私を裸にすると、首筋から静かに接吻して行った。

 私は、背筋をそらせた。

 生まれてはじめて味わう、粘っこい男性の愛撫だったのだ。

<ああ!Kさんに抱かれている!>

 私は、その感激だけで、Kの厚い胸に顔を埋めて泣いたのだ。

 −−余談だが、よく私たちは客から、

「あの時は、ペデラスティをするのか?」

 と聞かれる。

 だが、私は生まれて一度も、ペデをさせたことはない。

 Kだって、最初のときは、それを求めた。私は恐くて、

「それだけは堪忍して!」

 と云ったのだった。

 なにもペデラスティしなくたって、愛し合えるのだ、私と男は−−。

 Kは、私の忘れられない最初の男となったわけだが、正直に云って吃驚した。

 しかし陶酔が去ると、

<なんと素晴らしいことなんだろう!>

 と私の目尻から、涙が一筋、すーっと滴り落ちたのであった。

 その夜−−粗末なアパートへ帰ってから、私は自分の胸に、あたかも真紅のバラの花弁をちぎって、ばら撒いたかの如く、Kのキッスマークがついているのを発見して、いつまでもいつまでも鏡の中の自分の裸を見入りつづけたことである。

 それから私たちは、暇をつくってはドライブしたり、食事をしたりして、逢瀬を重ねた。

 しかしKは、変な評判が立つのを恐れていて、たとえば繁華街を車で走る時には、私は座席で横に

なって、窓から姿を見られないように、心を配らなければならなかった。

<男オンナだから、こんな悲しい想いをしなければならないんだ!>

 私は、そう思った。

 Kに会いたくなって、書店の前をうろうろして、あとで叱られたこともある。

<あたしが女になったら、Kさんのお嫁さんになれるのに! そして、この家で一緒に暮らせるの

に・・・・>

 私は、Kの家の前をうろつきながら、口惜しくてならなかったのだ。

 Kとの恋愛は、二ヶ月あまりで、結末を迎えた。Kが父親の命令で、東京の書店へ修業にやられる

ことになったからだ。

 その出発の当日、私は札幌駅の、プラットホームの柱の陰から、Kを見送るつもりでいた。

 Kの近くにいて、涙ぐんだりしたら、一目に立つ。それはKのためにならないと、自重したのだ。

 窓際に座って、窓を開けたKが、人々に挨拶しているのを、私は、そっと見守っていたが、しかし、汽車が動きだすと、矢も盾もたまらなくなって、

「Kさん!」

 と叫んで、列車を追ったのだ。

 Kは、私に手をさしのべた。私は追いついて、その手を握りしめたまま、プラットホームを走った。

 駅員は驚駭した。

「危ないッ! 手を離しなさい!」

 駅員は、制止しようと、私を追った。

 プラットホームには、大勢の見送り人が溢れている。

 しかし、その時の私には、恥じも外聞も、見送りの人も、駅員の制止の声も眼中になかったのだった。

 列車がスピードを増し、私がプラットホームの端に来たとき、私は駅員からタックルされた。そして私はぶっ倒れたのだった。

 だが、この事件は、狭い札幌の街では、たちまち噂となり、宣伝されたのである。

 一年後−−Kは、約束通り、札幌へ戻って来た。

 しかしKに会っても、私の躰は燃え立たなかったのだ。

 もしかしたら、あのプラットホームでぶっ倒れたとき、Kへの愛情は、燃え尽きてしまっていたのかも知れぬ。

 白状するが、Kと別れたあと、私は淋しさを紛らわせるために、いろんな男と寝た。

 それは単なる事情にすぎず、そして一つには生活のためだった。また、Kが帰った当時、恋人がいたわけでもない。

 それなのに、Kと会っても、なにか疲れるだけの感じなのだ。

 千景ママにそのことを訴えたら、

「あなたも、大人になったのよ・・・・」

 とだけ云われた。

 ベラミ時代に、私は髪を長くのばし、化粧も上手になって、女そっくりだとよく客に云われた。

 街を歩いていて、ガール・ハントされた時のことだ。

 お金持ちのボンボンで、ドライブだ、酒だと私をよく連れて遊び廻り、デイトのたびにプレゼントの品をくれる、気前のいい男性だった。

 そして彼は、ある日、

「僕の両親に会ってくれないか」

 と、真剣な顔つきで云いだした。

「なぜなの?」

 ときくと、

「きみと結婚したいんだよ」

 と云う。

 私は呆れ顔になったが、女と思い込んでいる彼が憐れでもあり、また内心、得意でもあった。

 私は云った。

「あたし、悪い女よ。あなたのお嫁さんなんかになれないわ・・・・」

 と、

 だが、いくら断っても彼は、

「結婚してくれ。親に会ってくれ」

 とせがむのであった。

 とうとう終わりに私は、

「あたし、女じゃないの。男なの」

 と打ち明けた。

 しかし、まだ八百屋の若旦那は信用せず、逃げ口上さと思っている。

 仕方なく私は、彼を連れてトイレに入り、スカートをめくって見せた。すると彼は口から泡を吹いて昏倒したのだった・・・・・・。よほどショックだったのであろうか。

 それから間もなく、私は引き抜かれて、旭川の店に移った。

 銀座ローズの店であったが、この引き抜きにはヤクザがからんでいたのだった。これが私が、無頼の徒と呼ばれる人たちと、かかわりあいをもった最初である。

 旭川の店には、半月ぐらいしか居なかった。ゴタゴタがあって、居辛くなったのだ。

 私は根室へ流れ、釧路の実家の近くの店にも流れて行った。釧路では、女ばかりの酒場に立ち混って働いたのである。

 帯広にも行った。ここでもヤクザがからんでいて、私は十五日働いて夜逃げをした。

 ところで、そんな移り気の私にも、スポンサーがついて、

「店をやってみないか」

 と云われた。

 場所は室蘭である。

 私は乗り気になって、<炎>という店をひらいた。外国船の外人を相手にするバーであったが、私は、私と同じ年齢の船員であるMに夢中になり、スポンサーであるヤクザ者から、太腿に下手糞なバラの刺青をされてしまった。

 この刺青を消すために、後に緋牡丹の入墨をしたのだから、そしてそれが舞台での私の人気を高めたのだから、変なものだ。

 私は口惜しかったので、左の手首に、Mの名を、そしてMの手首には、私の本名を刺青しあった。

 それ位惚れていたのに、Mは、私の眼を盗んで、こともあろうに、女と浮気をしたのだった。

 私は激怒した。

 店は潰れかかっていた。借金しているからといって、私はタダ働きさせられた上、ヤクザな連中が出入りするのでは、たまったものではない。

 私は仲間の三人に、店を潰すことを打ち明け、

「もうこんな、ヤクザな連中に脅かされるのは真っ平だわ」

 と云って、酒を飲み、店の物をすべて叩き壊してしまったものだ。

 むろん、室蘭には戻れない。

 私は、追われるごとく、生まれてはじめて津軽海峡を渡ったのだった。

 十七歳を迎えた春のことである。

 

   4

 −−弘前市。

 私はこの東北の町のキャバレーで、女性と偽って就職した。

 そして一ヶ月働いて給料を貰うと、念願の東京を目ざしたのだ。

 私は、ためらわず、銀座西二丁目の、並木通りからちょっと入ったバー<青江>の

ドアを叩いた。

 北海道でゲイ・バー勤めをしていれば、自然と東京の<青江>の名前は、いやが応

でも耳に入る。

 青江のママは、法政大学を出て、戦争中は陸軍中尉で戦車隊長だったという噂も、

私は予備知識として得ていた。

 だが、会った瞬間−−私はドキンとした。

 美人なのだ。

 それも女になり切った、いや、女そのものの美しさなのである。

 私は必死になって、

「使って下さい。お願いします!」

 と頭を下げた。

 ママは苦笑して、

「どうして、こう、青江女学院には、入学志願者が多いのかね・・・・」

 と呟いたものだ。

 バー<青江>といえば、ゲイ・バーの中でもトップ・クラスの店だった。

 私は、ここで一年みっちり働いた。

 この店で、私が学びとったものは、数限りなくある。

 たとえば、洗練された会話であった。

 たとえば、お客を口説くのに、北海道の店あたりでは、せいぜい、

「あたし、あなたに夢中なの。そこかに連れてってェ!」

 ぐらいしか云わなかった。

 ところが、<青江>の先輩たちは、

「ね、あなた。あたい、悔恨の美に酔ってみたいの。一生に一度だけの・・・・」

 などと、文学的な、実に洒落た会話をするのである。

「あなたって憎い人ね。憎むって、女心にひそむアイロニーなのよ、わかる?」

「ああ、あなたの顔をみていると、子宮が疼いてくるわ。でも、だめだわ、今度は。

だってピリオドですもの・・・・」

 などという会話の素晴らしさよ!

 ピリオドというのはスラングで、女性の生理のことであった。

 服や靴に凝ることを、教えられたのも、この青江である。

 生まれてはじめて銀座の空気を吸い、はなやかな洋装店、アクセサリーの店、靴屋、

バッグ屋、化粧店などを歩き廻るときの愉しさ!

 この気持ちは、誰にもわからないだろう。

 

 また、変な話しであるが、性的な面での技巧を教えてくれたのも、この青江の店の仲間たちだった。

 私を女と思い込んで寝て、いまだに女だったと思い込んでいる男性が、日本全国に何十人となくいるだろう。

 要は、テクニックなのだ。

 私は、青江でいろいろなことを覚えたが、そのうちバーテンと恋に陥ち、熱海に駆け落ちした。

 熱海で、ある客から口説かれて、青森の三沢で、バーをやってみないかと云われた。

<ミステイク>という店をひらいたが、ここもホモの外人兵相手で、本国送還になる兵隊が逃げ込んで来たりしたため、たちまち店は潰れてしまった。

 この三沢時代で口惜しかったのは、いくら女装していても、一目で、

「お前は男だな!」

 と見破る外人がいて、ある時など、

「あたし、女よ・・・・」

 と云うと、胸をさわって、首筋をつかみ、

「ゲラウト・ヒヤー」

 と二階から、階段に蹴落とされたことがあった。

<ああ、乳房が欲しい!>

 私は、そう思って泣いた。

 また札幌に舞い戻って、古巣のベラミで二ヶ月あまり働いていたが、四国の松山で、友人が店を開いたのに招かれて、松山に移る。

 ここでも十五日目に、客と喧嘩してしまった、私だった。

 松山から博多へ−−。

 ここでは一ヶ月位働いた。

 そして次は、名古屋へ−−。

 考えてみると、私は十九歳になっていた。

 思えば、十五の歳に釧路を飛び出して、札幌、旭川、根室、釧路、帯広、室蘭、弘前、東京、熱海、三沢、札幌、松山、博多、名古屋と十数ヶ所の都市を、四年ものあいだ私は流浪していたことになる。

 そしてこの名古屋で、私はKという年上の恋人を得たのだった。

 私は、長い黒髪をバッサリ切って、名古屋では胸にさらしを巻き、角帯に着物姿で働いた。

 女性の客にもてて、チップの収入だけで、月に二十万円ちかくあったこともある。

 私はKと恋愛し、同棲した。

 Kのために私は、料理を習い、洗濯を習いして尽くした。

 だが、それまでして尽くしたKを、私は喪ってしまったのだ。

 それは、私が人一倍、嫉妬ぶかいのが、原因だったらしい。

 たとえばKが店に来る。

 私は、他にお客があって、別の席についている。

 Kは仕方なく、他の子たちと話し興じながら、酒を飲んでいる。

 なんでもない酒場の風景なのだが、私はそれが我慢できなかったのだ。

 カッカッと頭に血がのぼって、

<私という女がありながら!>

 と、飛んで行って、Kの相手をしている同僚を、引っぱたきたくなるのである。

 Kが女性と話しているのなら構わない。しかし、私と同じような仲間と親しそうな口を利かれるのは嫌なのだ。

 店が終わり、Kと一緒にアパートに帰って、夜食をとる。

 この時が、私には一番愉しい時間である。

 だが食事が済むと、どうしても私は、

「あなた、今日は何していたの?」

 と訊ねてしまうのだった。 Kが、たとえば、映画をみて、お茶を飲んで、誰かと会った・・・・と答えたとする。

 すると私は、

「そう。何ていう人?」

「それで、どんな話しをしたの?」

「それから、どうしたの?」

 と、次から次に質問しなくては、気が済まないのである。

 私が店で働いているとき、Kが何をしていたかを知らないと、苛々するのであった。

<もしや留守に、他の男と浮気でも・・・・>

 と考えると、カーッとなって、根掘り葉掘り、一日の行動を聞き出さずには居られなくなるのである。

 私は、人一倍、独占欲のつよい女なのであろうか?

 Kは、私があまり執拗なのに閉口したらしくて、半年後、以前に交際していた女とまた一緒になってしまったものだ。

 私は、逆上した。

 私は、女のアパートに乗り込んで、ドアを蹴り破り、部屋中の物をひっくり返して暴れたのだ。

 それから自分の部屋にとって返して、私が働いて新調してやったKの背広やワイシャツなどを、全部ズタズタにして泥の道に抛りだし、自分はハイミナールを飲んで、自殺を図ったのだった・・・・。

 私は、命をとりとめた。

 私は、もう二度と、男に惚れまいと決心して、心の傷を癒すために、また札幌に帰ったが、あきらめ切れないのだ。

 私は名古屋に舞い戻ろうとしたのだ。

 忘れよう、捨てようと思った、Kの許に、である。

 私はその頃、ハイミナール中毒になりかかっていたのかもしれない。

 Kは、私のアパートに戻って来てくれたけれど、二人のあいだは、昔のようにしっくりはゆかなかった。無理もない。

 

そのうち、二人の留守に、泥棒に入られて家財道具を一切盗まれるという事件が起きたのを契機に、私は、きっぱりKと別れる決心をした。

 そして大阪の<カルーセル>に職を求めたのた。

 大阪にはゲイ・バーが約三十軒あるといわれている。そしてその中でも、ミナミの

八幡筋にある<カルーセル>は、最高の雰囲気と設備をもった店である。

 店の中央には、ステージがあった。

 そしてステージに立って、日本舞踊や、ソロ、フラメンコなどを、私たちは客に

披露するのだった。

 ママは、原ちゃんと客から親しまれているこの道二十年のベテランである。

 私は、このカルーセルで働くことにしたとき、“麻紀”という新しい源氏名を

つけた。

 再出発のつもりだからだ。

 私は、二十歳になっていた。

 ただ、ゲイ・ボーイになったのでは、つまらない、と私は真剣に思った。

 なった以上は日本一の“女”になり切ることだ、と私は考えたのだ。

 私は、髪の毛を脱色して貰い、思い切った金髪にした。一目を惹くためだ。

 またステージ・ダンスを勉強して、店のステージで踊ろうと思った。

 そのためには、肋骨の浮いた乳房では、貧弱すぎる。

 私は、オッパイを膨らませる注射をして貰った。

 これは簡単なようだが、実に痛い。

 目が霞むぐらいの痛さだった。

 でも私は、苦痛に耐えた。

 高校生のころから憧れ、欲しい、欲しいと思いつづけて来た乳房である。

 乳房がないために、どんな口惜しい思いをしたか知れない、その乳房が、いま

自分にあたえられつつあるのだ。と、歯を食い縛って頑張ったのである。

 丸い女のような膨らみをもった、二つの乳房はこうして私の物となった。

 私は来る日も来る日も、鏡の前に坐って、うっとりと自分の膨らんだ胸を、眺め

つづけたことである。

 ・・・・私が、年下の大学生であるTを知り、また夢中になって愛しはじめたのは、その

乳房を得てからだった。

 私とTは、同棲した。

 ところがTは、私が、女性だとばかり、思い込んでいたのだ。

 私は愛の行為をもつとき、照明を消す。

 そして窓から差し込む月明かりの下で、愛撫しあう時に最高の恍惚を味わう。

 そして、男性の部分には、決して触らせなかったのだ。

 私がTにサービスして、彼が我慢できなくなった時に、私の右手の中に、彼を誘う

のである。

 Tは、それで、私を女性と思い込んでしまったらしいのだ。

 Tは、若く純情なだけに、私はすごく献身的なところがあった。

 数ヶ月たってから、私はTに、

「あたし、男なの・・・・」

 と打ち明けた。

 Tは吃驚して、二、三日、アパートへ帰って来なかったが、電話をして来て、

「男なんだからと、麻紀を忘れようとしたんだけど駄目なんだ・・・・」

 といって、また私の許に帰って来た。

 私は、嬉しかった。

<このTのためなら、どんな辛いことでも耐え忍ぼう・・・・>

 と決心した位だ。

 乳房をみせて、金髪の長い毛をふり乱し、ストリップを踊る私は、お客の人気者になった。

 また私が大阪の街を歩くと、

「あれは誰だい?」

 と人々は振り返り、やがて、

「カルーセルの麻紀が歩いているぞ」

 と人の口に名がのぼるようになる。

 店がはねると、あちらこちらから、遊びのお座敷がかかったり、これもサービスと、アパートで待っているTのことを考えながら、客につきあったことは何度あったろうか? おそらく数え切れない位である。

<カルーセル>には、俳優のK、歌舞伎のIといった人々が、よく客にみえて、私は特に贔屓(ひいき)にして貰った。

 Kと酒の飲み較べをして、Kが新歌舞伎座の楽屋入りに遅れ、幕のあけるのを二十分遅らせたというのは、そのころの事件である。

 また、Iという人は茶目な人で、その頃の夫人であったHに、

「むかしの僕の恋人だよ・・・・」

 と紹介したりした。

 女優のHですら、私を男とは見抜けなったのである。

 ・・・・Iの恩義は私は生涯忘れられないであろう。

 彼は三十八年の暮れに、私が店で踊っているのを見ながら、

「きみなら、舞台に立てますよ」

 と、東京の日劇ミュージックに、私を紹介してくれたのだ。

 これが私の運のつきはじめである。

 それから、三十九年八月に、私はOSミュージックの舞台を踏んだ。

 だが、その公演の頃、ある日私は鏡をみていて大変なことに気付いたのだった。

 なんといったらいいのか、よくわからないが、私は不図、鏡の中の自分に、男の匂いを嗅いだのだ。

 躰の中に、男の匂いがする!

 別に、どこというわけではない。

 しかし、小さな部分部分に、男の徴候が少しずつ染み出ているような気がしたのだ。

<あッ、これは!>

 私は、愕然となった。

 乳房はふくらみ、月に一回、女性ホルモンを注射しているというのに、これは一体どういうことなんだ?

 気にしてみると、肩幅などが、なんとなくがっちりして来たような感じになる。

<ああ! 私は男になる!>

 私は目の前が、真っ暗になる。

<このままでは、男になってしまう!>

 私は、恐怖と焦燥とに虐まれだした。

 女である。と信じ込んで来た私だった。

 それが、男になったのでは・・・・。

 私は、<カルーセル>の同僚から性転換をうけたという人の話しを聞き、さっそくその人に手紙を書いた。

 そして大阪の病院を、教えて貰ったのだ。

 私は、即座にその病院を訪ねた。

 医師は、

「法律から禁じられているし、それに日本では完全な性転換手術はできない」

 といった。

 しかし私は、

「どうしても女になりたいのです」と主張したのだ。

 医師は、

「それでは、睾丸摘出だけしましょう」

 と折れた。それから彼は、

「いつにします?」

 ときく。私は、なんのためらいもなく、

「今日、入院します」

 と答えたのだった。

 思い立ったが吉日なのだ。

 翌日、私は手術台の人となった。

 医師は手術前に再び、

「絶対に後悔しませんね? 二度と、男に戻れませんよ?」

 と念を押した。

 私は、下半身麻酔で、感覚のなくなった自分の腹部を眺めながら、大きく肯いた。

 私は“男”に別れを告げて、本当の“女”になる経過を、はっきり自分の眼で確かめておきたかったのだった。

 しかし、あまり気持ちのいいものではなかった。

 手術は、陰毛が生えている部分を左右同形に一寸ぐらいメスで切り、その傷口から睾丸を抜きとる・・・・という経過を辿った。

 睾丸は、丸いものかと思っていたら、ラッキョウのように細長くて、赤い筋がいっぱいついていた・・・・。

 でも私は、後悔はしなかった。

<これで、いいんだ・・・・>

 と自分で、自分にいい聞かせた。

 −−そして夜半。

 麻酔は切れると、ズキン、ズキンと物凄い激痛が、私を遅いはじめた。

 ベッドに寝ていて、眩暈がするのだ。

 それでいて、頭がトンカチで殴られたように、波打って痛む。

 私は、Tになにも知らせずに、たった一人で入院したことを悔いた。

<ああ! 痛い!>

<助けて! お母さん!>

 私は、苦痛に耐えようと、歯を食い縛ってみる。

 だが、だめなのだ。

 その苦痛のさなか、尿意が襲って来た。

 私は、必死の力をふりしぼって立ち上がり、病院を出たところまでは覚えている。

 そして次に気がついた時は、ベッドの上だった。

 廊下で、意識を失って倒れていたのだ。

 ・・・・この時は、流石の私も泣いた。

<なんで、こんな馬鹿な手術をしたんだろうか?>

 と、後悔したのだ。

 病院からの連絡で、Tが駆けつけてくれたとき、私は我慢できなくなって、大声でオイオイと泣いたのである。

 手術は、成功とはいえないようだった。

 患部は大きく腫れ上がった。

 内出血を起こしたのだ。

 激痛と発熱とに、私は十日近くも、ベッドの上で呻吟しなければならなかった。

 やっと退院したが、病院には一ヶ月半も通わされた。

 私は、退院すると直ぐ、店に出た。

 痛みは残っていた。

 しかし、生活があるのだ。

 それに、私は女になれたという嬉しさを、店の誰彼なしに吹聴したかったのである。

「女になったんだって?」

 と客がきく。

 私は得意顔で、

「ええ、そうなの・・・・」

 とスカートをめくってみせる。

 そこには白い包帯で、ぐるぐる巻きにされた下腹部があるだけなのだが、私はそれが見せたかったのだ。

 客は、

「思い切ったことをするな」

 と驚いた顔をしたが、その時、どういうわけか、私は恍惚とした感情を味わったのである・・・・。

 

      6

三十九年八月。

 私は、OSミュージックの舞台に立った。

 私の初舞台は、戸川昌子の<猟人日記〜私をせめないで>であった。

 そのころは、カルーセル麻紀という芸名であった。

 その年の春、パリからブルーボーイという人工美女が、大挙来日して話題を投げかけ

たが、おそらく金髪でカルーセルで踊っている私の姿をみて、OSミュージックの人た

ちが、

<あの子を踊らせてみたら・・・・>

 ということになったのであろう。

 だが、舞台に立ってみて私は、いまさらのように“女”が欲しくて、その故為も

あって摘出手術したのだ。

 通院一ヶ月半で、私の躰はすっかり健康体に戻ったが、そのころ私はある微妙な変化

に気がついて嬉しくなった。

 胸の乳房が、自然と大きく膨らみはじめ、女性そっくりな、弾力あるものとなり

はじめてきたことだ。

 私は二時間あまりの手術と、二ヶ月ちかい手術後の苦労は、いっぺんに吹ッ飛んだ

感じであった。

 気になっていた肩幅も、女らしい撫で肩になったし、喉仏なども消えてしまった。

 もっとも私は、あるかないかのアダムズアップルしかなく、足の脛毛などもなかった

のであるが−−。

 そして翌四十年八月、憧れの日劇ミュージック・ホールへ出演するわけだが、その前

に私は刺青を入れている。

 本当は下手糞なバラの刺青を消して貰うつもりで、友だちに連れられて、大阪の刺青

師のところへ行ったのだ。

 ところが、刺青師は、私の肌をみて、

「こらァ練り絹みたいな肌や!」

 と眼を輝かし、

「ただでええよって、彫らしてんか?」

 といったのだ。

 私は即座に、オーケイをしてしまったのだから、お調子者である。

 バラも消さずに、それを包み込むように、緋牡丹を彫ったのだ。そして私の友人は、

右脚に同じものを彫って入れた。

 この時も私は、誰にも相談していない。

 摘出手術の時と同じで即戦即決だった。

 痛くはあったが、あんな凄い手術のあとなので、割合に平気であった。

 ただ皮が剥けて、熱を出した時には、ウンウンと唸り声をあげた。

 恋人のTは、それを知って仰天し、「バカ! 何てことするんや!」

 と泣きながら一晩中、その刺青の腫れと熱をとろうと、タオルで冷やしつづけてくれ

たことである。

 私は、Tがますます好きになった。

 

 この刺青は、いろいろな効果をあげた。

 日劇ミュージック・ホールでの舞台では、牡丹の朱色、葉の緑色とが、芸者姿でストリップをみせる私の太腿を、妖艶なものにみせてくれたし、また町でチンピラにからまれたとき、ぱッとスカートをまくって、男の太い地声で、

「なに言ってやんだ、この野郎!」

 と一声吠えると、みんなは恐れいりましたと頭を下げるのである。

 それに客席では、チラット刺青を見せて、

「変った靴下でしょう? あちら製なの」

 というと、たいていのお客が、

「ふーん。よく出来ているね、本当の刺青みたいだよ、うん・・・・・・」

 などと感心したものだから面白い。

 日劇ミュージック・ホールの出演は、私を有名にしてくれた。

 週刊誌、スポーツ紙が、性転換したブルーボーイ出身の踊り子として、あれやこれやと取り上げてくれたからだ。

 そして私は多忙になった。

 あちらこちらから、出演の交渉がくる。

 大阪を留守にすることが多くなる。

 ということは、恋人のTの、世話をしてやれないということだった。

 Tと同棲して三年のある日−−私が地方巡業から開放され、大急ぎでTとの愛の巣へ帰って来た時のことだ。

 ドアを開けた私は、その部屋の中で、みてはならない物をみてしまったのである。

 Tと、見知らぬ女とが、絡み合っていたのである!

 私は、頭に血がのぼった。

 カーッとなった。

 私はTのために、働いているのだ。

 それなのに、留守中、外で女と浮気するなら兎も角、私とTとの愛の巣へ、女をひっぱりこんで、不潔な男女の交わりをするとは、一体どういうことなのだろう!

 私は、Tと女に、

「出て行って頂戴!」

 と叫んだ。

 名古屋のKに対しては、あれだけ逆上して乱暴した私なのに、私はTには、三年も同棲した彼には、たったそれだけしか言えなかったのだ・・・・・・。

 それはやはり、睾丸をとり、女になりきったからなのであろうか?

 Tと女は、部屋を出て行った。

 そしてTは、それっきり私の許へ、戻ってくれなかったのだ。

 私は、Tのいない大阪のアパートで、暮らしていると気が狂いそうになる。

 Tと私の、三年間の思い出が、ひとつ、ひとつ、しみついた物ばかりだからだ。

 私は、大阪を棄て、東京で住む決心をしたわけである。

 いま、私は東京で暮らしている。

 溜池に近い鉄筋のアパートが、いまの私の城だ。

 日劇や、ナイト・クラブなどのショーに出ない時は、銀座のクラブMに勤めて、午後十一時からは泰明小学校のそばの<僕ん家>へ顔を出している。

 ママは、私がさんざん迷惑をかけた青江のママである。

 私の日課は正午の目覚めと共にはじまる。

 朝の化粧はしない。

 夜に備えて、肌を休ませるためだ。

 そのかわり蜂蜜石鹸で、一日に何回も顔を洗う。

 私が躰のなかで、一番大事にしているのは何といってもバストだ。

 お風呂には、一日二回は入る。

 一回ごとに石鹸を変え、三度、躰を洗うから、一日に六度も体を洗うことになる。

 湯から上がると、素っ裸で、ベットで三十分間、なにもしないで寝転がるのだ。

こうすると白粉の乗りがいい。

 乳房は、湯に入ったとき、手でクルクルとマッサージして、あとでクリームをたっぷり塗り込んでやる。

 すると乳房が、いきいき弾んでくるのであった。その瞬間、私は女であることの喜びに目を細めるのだ。

 私の部屋には、いたるところに鏡台がおいてある。

 それはいずれも、自分自身の躰を、いつ、どこでも眺められるために、配置したものだった。

 ・・・・私は、女なのだ。

 そしてナルシストなのだ。

 一日中、鏡をみていても、私はあきない。うっとりとなる。女カルーセル麻紀の、美しい顔に・・・・。

 目覚めると、部屋の掃除をして、気が向けば自分で朝飯をつくる。

 お新香、御飯、味噌汁といった、和食党なのである。

 恋人との、何回かの同棲が、私を料理上手にしたものだ。

 私のつくった味噌汁は、KもTも、目を細めたものだった。

 昆布とカツオ節とで、さッとダシをとって具を入れ、味噌を入れて煮だった時、椀によそって出す。それが美味しい味噌汁のつくり方なのだ。

 しかし近頃の若い女の子は、インスタントで間に合わせるらしい。

 こう何でもインスタントばやりでは、十年後には、美味しい味噌汁のつくれる私などは、重宝がられる存在となるのじゃないかしらん・・・・。

 食事後は、カラーテレビを寝転がって見ていたり、バザー、ボーグ、エルなどの外国のモード雑誌を眺めたり、する。

 服でも、化粧法でも、つねに他の女性の尖端を行きたいからだ。

 カルーセル麻紀とは、そんなところがある女なのだ。虚栄のかたまり。

 大阪で働いているころ、ミンクのコートを買ったのが嬉しく、財布に百円しかないのにそれをまとって道頓堀をしゃなり、しゃなりと歩いたことを思いだす。

 虚栄心がつよい癖に単純だから、私はいつも損をしている。

 買い物などでも、目の前の物をパッパッと買ってしまうのだ。

 たとえば、食事を毎日、自分でちくるのは苦痛なくせに、パッパッと野菜を何千円も買って来て、結局、腐らせて捨ててしまうところがあるのだ。

   7

 午後五時ごろ、入浴する。

 入浴が、カルーセル麻紀の、唯一の美容法なのだ。レモンで肌をこすったり、石鹸で洗ったりして、三十分は浴室で過ごす。

 湯といえば、中学生のころ、男湯がはじめは恥ずかしくて恐かった癖に、後に母から「男の子の癖に、二時間も三時間も、銭湯にいて、何をしてるの!」

 と叱られたことを思い出す。

 私は、男性のシンボルを眺めて、恍惚となる中学生に、一変していたのだ。

 しかし、性転換してからは、堂々と女湯に入っている。

 いや、正直に言うと、日劇ミュージックに出演している頃、堂々と男湯に入って行ったら、警官を呼ばれる・・・・という騒ぎになって懲り懲りしたからなのだ。

 体つきは、女以上に女らしくて、ただ小さなミニ・サイズの象徴だけが残っている

のだから、警官の方も、男と女の、どちらの部屋に入れてよいのか、当惑していたっけ・・・・。

 入浴のあと、三十分の睡眠。

 そして鏡に向かう。

 この時が、一日で一番楽しい時だ。

 着る洋服を考え、そして化粧も考える。考えながら化粧する愉しみ!

 私は鏡に向かって呟く。

「あたしは、誰よりも綺麗な女だわ」

 と−−。

 ある時には悪魔ぶって、

「ああ、綺麗な女! 今夜も男を、欺さなきゃ・・・・」

 と呟いたりする。

 化粧には、三十分ぐらい時間をかける。

 唇、肌、爪それぞれに性質が違うものに、化粧を施すのだから、研究は欠かさない。

 私は、自分の肌にあうメーカーの化粧品を探しあてるのに、本当に苦労したのだ。

 しかし近頃の若い人は、ルージュから香水まで、一社の製品で済ませている者が多い。嘆かわしい現象ではないか!

 私はいま、バスト85、ウェスト59、ヒップ86というサイズだ。

 標準型だから、既製品でたいてい間に合うけれど、近頃、少し肥った故為か、お尻にエクボが出来るので気になっている。

 森英恵の店でよく買うが、流行には敏感な方だから、ミニ・スカートだって誰よりも早く買って来た。

 洋服は、柳行李に五つ位もっている。

 洋服だけで60着、靴はハイヒールは少ないが50足はあるだろう。

 アクセサリーは、数え切れない。

 舞台用と、ホステス用とあるからだ。

 香水は、フランスのジョイ。

 滅多に手に入らないので、フランスへ行く人に頼むのだ。

 私の自慢は下着類で、ビキニの凄いパンティとか、スリップ、コルセット、ガードルなど、華やかなこと、量の多いことでは、人後に落ちない。

 好きな色には、周期があって、明るい原色が好きな時期がしばらく続くと、淡い紫系統の色が好きになったりする。

 これはどういうわけだろうか?

 好きな色で思い出したが、私は、ミミズ、ウジをみると、食事が咽喉を通らない位、大嫌いな癖に、青大将など蛇は好きなのだ。

 舞台で、スネーク・ダンスをやったこともある。

それと好きなのは、蝶である。

 私の部屋には、いろいろな蝶が飾ってあるが、美しいから好きなのかもしれない。

 

 化粧のあと、私は洋服を着る。

 ふつうのゲイ・ボーイは、薄い胸や、脛毛をかくすために、和服を着るのだが、私は女なんだし、脚線美を誇りたいのだ。

 午後七時、クラブMに出勤。

 ステージのある日は、自由に休ませて貰えるし、気侭な勤めのできる店だ。

 午後十一時、<俺ん家>へ駈けつける。

 そして午前二時、店がはねてからが、私の遊ぶ時間だ。

 ゴーゴーが踊れる店へ行って、朝五時すぎに帰宅。

 その間は、ウイスキーの水割りを二、三十杯は飲んでいる。

 しかし、二日酔いはしない。

 ただ酔ってくると、裸をみせて踊りたくなるのは困りものだが。

 ・・・・そうだ。

 札幌のベラミに勤めはじめて間もない頃、友達と二人でウィスキーを1本あけ、酔うとなんだか泣きたくなって、素ッ裸になって、

「家に帰りたい!」

 と叫んで、戸外へ飛び出したことがある。

 また、酔っぱらって、折角、長く伸びた髪の毛を、鋏でジャキジャキ切り、「もう止める! 止める!」

 と泣き喚いたのも、あの頃であった。

 近頃は、泣かない。

 睡眠時間は、五、六時間がよいところであろう。酔っているから熟睡できるのだ。

 考えてみれば、カルーセル麻紀という女も変った性格な女だ。

 我が侭である。

 執着心がつよいのに、飽きっぽい。

 明るく騒ぐかと思うと、嫉妬深い。

 気性が激しく短気な癖に、ひどく鷹揚なところがある。

 男に対する独占欲は強いのに、自分の浮気に対しては寛大である・・・・。

 自分でも、私は一体、どんな女なんだろうと思うことがある位だ。

 私は、自分が浮気をしても、自分の恋人が浮気するのは嫌なのである。

 とくに恋人が、男と浮気したとしたら、おそらく私は殺しかねないだろうと思う。

 しかし考えてみると、いろいろな男がいた。

 私を縛って、ローソクの火をつけたり、鞭でピシ、ピシ躰を引っぱたいたサディストがいた。私は泣いて悲鳴をあげた。

 そのうち、今度は自分を縛ってくれと相手はいう。

 私は、その腹立たしい男を、ぐるぐる巻きに縛って、思い切り相手を鞭で引っぱたきロープを解かずに、さっさと帰って来てやったのだった。

 また夜中に、目を覚ますと、一緒に寝ていた髭面の大男が、私のブラジャーをつけて女装しようと懸命になっていたこともある。

 これには思わず笑ったが、男性のシンボルだってラムネ瓶ぐらいに巨大なものやら、疣(いぼ)ぐらいの大きさしかない人だっていた。

 そんな粗末な道具で、子供が三人もあるというのだから不思議であった。

 私の躰の、男性の遺物は、手術後は退化する一方にある。

 そして、セックスの欲望も、次第に退化しているようだ。むかしは、うんと強かったのであるが。

 なんというのか、しんどいのだ。

 しかし疲れるけれど、やはり週に一度は、どうしても男が欲しくなる。

 私の性感帯は、左の乳と、首筋と背中。

 乳首を優しく接吻されながら、男から背中を愛撫されると、最高に興奮してしまう。

 私の場合、セックスとは頭なのだ。頭のセックスなのだ。

<ああ・・・・好きな人から、いま私は犯されている!>

 と考えただけで、背筋がゾクゾクして来るのである。

 そして私の肌を、彼が潰す時、私はアクメに到達するわけである。

 しかし、私の小さなシンボルのために、泣いたことがなくもない。

 私がハワイに行ったのは、四十一年の十月である。

 戸籍は男なのに、パスポートの写真は、どこからみても女なのだ。

 そこでビザを受け付けたアメリカ大使館から呼び出しが来た。

 大使館員は、

「アメリカは法律で、ゲイ・ボーイの入国を禁じている」

 という。

 旅行社の人が、懸命に、

「この人はゲイ・ボーイじゃない。女の格好をして踊るステージ・ダンサーだ−−」

 と主張してくれたが、三時間かかって、

「躰を調べて完全な男性なら許可しよう」

 ということになった。

 翌日、カソリック系の病院で、検査をうけることになったが、男の下着が家の中には一枚もない。

 百貨店に行って、

「あのう・・・・男の人の、ズロース下さい」

 といって笑われたり、乳房のふくらみをおさえるためサラシを巻いて、スラックスにセーター姿で病院へ行ったが、さて、検査が大変だった。

「レントゲンを撮るから、サラシをとって下さい」

 と看護婦はいうのだ。

 向こう向きにサラシをとり、胸を両手で隠す。

「邪魔ですから、手をはずして」

 と叱られ、両手を離すと、

「キャアッ!」

 と看護婦はビックリして消えてしまったことを思いだす。

 精神科の医者から、

「男と女と、どちらが好きか?」

 ときかれ、

「もちろん、男・・・・」

 と答えそうになり、最後に、

「下着をぬぎなさい」

 といわれた時には、泣きたくなった。

 こんな苦労をしてハワイへ着いたのであるが、またしても当局から待った、である。

 そして医師が来て、身体検査をするといいだす始末。

 私は、とうとう泣きだした。

<完全な女でないから、こんな悲しいトラブルが起きるんだわ!>

 私は、金をためて、フランスで完全に女になる手術を受けようと、そのとき固く固く心に誓ったことである。

 私のいまの望みは、手術代をつくって、完全な女になることだ。

 そして私の楽しみは、化粧をする時と、銀座なんか自分の好みの、ハンサムで可愛い美少年を連れて歩いたり、男の子から声をかけられたりする時だ。

 いま、私は恋をしている。

 長崎の、十九歳の男の子で、近く上京してくる予定だ。

 私は巡業中の一週間、片時も、その若い恋人を離さなかったし、彼も一晩中、この私を寝かさせなかった。

 ああ、どうして私って、こんな風に男に弱いんだろう!

 私のところには、よくいろいろな男性から悩みの手紙が来る。

『カルーセル麻紀 様。

 とつぜん手紙をさし上げます。実は、貴女のことを週刊誌で読み、私の悩みをきいて頂こうと考えたのです。

 私は小さい時から、女の子のように色が白くきれいな肌をしているといわれました。

そして長男に生まれながら、男の人の胸毛をみると、あんな人に強く抱きしめて貰いたいと、胸がドキドキして、話しをするのも息苦しい位なのです。

 男の人と一緒に風呂なのに入ると、お湯の中で抱いて貰いたいような気分になり、男性自身を思い切り、口に含んで吸いたいという気持ちになります。変態でしょうか。

 近頃では、この妄想のため、食欲も進まず、悩みつづけています。どうしたら私はこの病気から、逃げられるのでしょうか。

 あるいは貴女のように、女になってしまわなねれば、だめでしょうか。どうか、お教え下さいませ』

 というような、深刻な悩みの手紙から、ゲイ・バーで働きたいという希望や、私に対するプロポーズの手紙など、さまざまだ。

 私は、そんな手紙を読むたびに、世の中には、かつての私のような悩みをもった人が、いかに多いか知って愕くのだ。

 だが、私は、それらの人々に、女になれとは勧めたくない。

 憧れだけでは、だめなのだ。

 私は、カルーセル麻紀は、女になりたい一心で、北海道から九州まで流浪し、そしてやっと“女”に生まれ変わったのである。

 私の執念が、私を女にしたともいえる。

 いま、私が考えている人生の設計図は、三十までに、完全な女になって、お店を一軒持つことである。

 私は、他人の真似のできない、オリジナルな方法で、私を世間から認めて貰おうと

努力して来た。

<カルーセル>時代、髪の毛を金髪にしたり、白くしたりしたのも、そのためだった。

そうして、誰かが真似をすると、逆に短く切ったりして、自分で自分を売り込んで来たのである。

 カルーセル麻紀は、私だけのものだ。

 そして信じられるのは、自分だけなのだ。

 私は今日もまた、鏡の中の私に向かって、

「お前って、素敵な女ねえ! 世界一じゃないかしら?」

 と呟くながら、化粧をしているだろう。

    終

『小説セブン』 昭和43年7月号より泉 大八 著

 

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